「クロネコヤマトの宅急便」を始めたクリスチャンの二代目社長―小倉昌男氏

 全国に翌日配達するヤマト運輸の宅急便を生み出したのは、故小倉昌男である。大和運輸株式会社は1919年(大正8年)に、小倉氏の父が関東一円で小口貨物の積み合わせ運送を行う会社として始まった。東大経済学部卒業後の1971年、2代目の社長となった小倉昌男は、コスト高に思えた小口貨物の注文を断り、大口貨物に集中させた。時代は高度経済成長、松下、シャープ、三洋電機など関西系メーカーの家電製品を、最大の消費地、東京へと運ぶために、関西系のトラック業者は成長していた。しかし、設立した父親が近距離・小口貨物にこだわっていたため、長距離・大口貨物の参入に遅れた大和運輸は、大口の運賃の安さから、業績は悪化するばかりになる。
 1975年、倒産寸前の危機にあった時、小倉社長は役員に宣言する。「大和運輸は、これからは大口貨物はやめて、小口貨物一本で行く」と。役員らは、小口は手間がかかって採算性が低いと猛反対、「世間知らずの2代目はこれだから困るんだ」などと言う。しかし、小倉社長は、小口の荷物を送る主婦たちは不便をしている、そんな人たちを助けたい、主イエスのことば「自分がして欲しいように人にしてあげなさい」を運送業でも実行したいと決意していた。そして、「真心とおもいやり」をもって、「お客様に喜んで頂く」ことを目標にしてやれば、必ず取り扱い個数は増え、利益を生むようになると確信していたのだ。小倉社長は、大和運輸に入社した頃、重症の肺結核となり、死を覚悟して4年間入院したことがあった。ちょうど大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していたため、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手でき、当時としては奇跡的に回復する。入院中、聖書を差し入れてくれた人がいて、退院後、救世軍に入り、小倉社長はクリスチャンとなっていた(後に夫人と同じカトリックに改宗)。
 1976年1月20日、「宅急便」はエリア限定で、企業相手ではなく、家庭を含む不特定多数の個人を相手に、翌日配達のシステムとして始まった。電話1本で1個でも家まで集荷に来てくれるサービスは国民的な支持を受けたが、全国展開にするためには、運輸省(現国土交通省)より地域毎に路線免許をもらわなければならない。しかし、運輸省は、競争激化を懸念した地元の運送業者が反対しているから免許は下ろせないと言う。そんな時、政治家に頼ればいいと小倉社長に助言する者もいた。しかし、政治家の力を借りれば、反対業者も別の政治家に口利きを依頼する。政治家同士は、足して二で割る妥協をするだろうから、大和運輸の要望は完全には通らない。だから、小倉社長は、政治家には頼まなかった。それどころか、既存業者の反対があるから路線免許は与えないというのは行政権の放棄だと、小倉社長は、当時の運輸大臣、橋本龍太郎氏を東京地裁に訴えた。運輸省は裁判で勝つ自信がなく、直ぐに免許がおりた。神を畏れ、人を恐れない信仰がなせる業である。宅急便の全国展開により、小倉さんは会社を救うことが出来た。この「御翼」も、A4サイズのまま折らずに80円で全国配達する「クロネコメール便」を利用している。1995年、小倉社長は、私財を投じてヤマト福祉財団を設立、健常者に保証されている最低賃金の支払いを、障害者にも保証する職場を作り、障害者の自立と社会参加を支援する働きをしている。
 「自分がして欲しいように人にしてあげなさい」という主イエスの言葉に従い、この世の権力に頼らず、神を信頼して宅配便という新しいインフラを作り、障害者への差別のない社会を目指したのが小倉社長であった(2005年召天、80歳)。
御翼2011年5月号その1より  
  
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